自分の価値観を大きく変えたカナダ留学
幼少期から喘息などで弱かった体を強くするためにスポーツを始め、幼稚園でラグビー、水泳、その後体操やブレイクダンス、中学からはアメリカンフットボールと、気づけばスポーツ中心の学生生活を送ってきました。大学に入学すると、元々海外への憧れが強かったこともあり、1年生の夏にはカナダへ留学しました。
当時は2000年。日本はバブル崩壊の傷跡を引きずり、国内の自殺者数は年間3万人を超え更に増加傾向にありました。電車では暗い疲れた表情のサラリーマンや、新聞では老夫婦が生活苦により自殺したといった暗いニュースが目につき、日本の未来に対して、どこか暗いイメージを持っていた気がします。
そんな中、留学したカナダでは大自然の中で心豊かに暮らす人々の生活に出会いました。ホストファーザーは、夕方17時位には仕事から帰ってくるので、平日でも大自然に囲まれた家の庭で家族でBBQをしたり、近所の湖を散歩したりと、なんて心豊かな暮らしがあるんだと驚きました。
また街に出ると、家族の笑顔が溢れていたのが印象的でした。
モノは少なくシンプルだけれども、人と人とが温かく繋がり合う心豊かな暮らし。モノは溢れるが街に笑顔が少ない日本との対比の中で、幸せの価値観が根本から大きく変わった瞬間でした。
日本では経済成長を支えてきた人たちが、最後は経済的に追い込まれ生き場を失って自ら命を絶つ人も多くいる、そんなニュースを見る中で、なんて悲しい社会なんだと悔しくて震えました。それ以降、『日本を笑顔溢れる国にする』ことが、自分が生涯かけて取り組みたいテーマとなりました。
日本一のアメフト部で学んだ最先端の組織運営のモデル
大学時代の岸 (背番号7番)
カナダから帰国後には、もう一度アメリカンフットボール部に入部しました。150名近い部員と共に、日本一を目指す取り組みは、強い組織とは何か、その中で個人として果たすべき役割とは何かを考え続ける最高の学びや気づきの時間となりました。
私の所属したアメフト部は、日本で一番多く日本一になっているチームでもあったのですが、コーチや監督から、「日本一になれ」と言われたことは一度もありませんでした。監督から常に問われるのは「どんな人間になりたいのか?」。
コーチングを学んだ今であれば、Doing(何をやるか)よりも、まずBeing(どんな存在でありたいのか)を考えることの重要性を理解できますが、当時はそんな言葉も知りません。
「どんな人間になりたいのか?」を日々問われ、そのありたい姿から逸れた行動をしていると「お前、嘘つきやねん。口だけや」と監督や周囲から言われる日々。
誰かが決めた目標なら、実現できなくても、最初から目標が現実的ではなかったと言い訳ができます。
でも、自分で決めた「ありたい姿(Being)」に基づいた目標であれば、言い訳することができません。
そういった環境が、自分やチームを大きく成長させました。
また、チームのカルチャーも、体育会にありがちな学年の上下の壁はなく、下級生が上級生に対してもニックネームで呼び合う「フラット」で「合理的」な組織。ボール磨きやグラウンド整備なども、それが最も「合理的」という理由から、単位を取得し終わり、授業の少ない大学4年生が取り組みます。
チームの中では、大学4年生が経営チームとしての役割を担います。チーム始動後の数か月は、それぞれが個人のBeing(ありたい姿)を共有し合った上で、チームとしてのありたい姿(Being)や実現したい未来(Vison)を話し合い、言語化します。
そして各4年生が、所属チームの下級生へ1on1のコミュニケーションで、自分たちが掲げた理念のチーム全体への浸透に取り組みます。
後に、このアメフト部で取り組んだチームづくりの手法は、現在様々な組織で叫ばれている「理念型経営」や「Purpose経営」等の手法と共通することを知ります。
アメフトを通して学んだ、組織論やリーダーシップなどは、その後の社会人人生を支えるかけがえの無い財産となりました。
人が輝くためには、
「誰かの役に立っている実感」と「人との繋がり」が必要
アメリカンフットボール部を引退した後には、再度アメリカへ留学しました。
超高齢化社会になる日本において、自分たちの未来でもある高齢者が活き活きと生活する社会は、日本の明るい未来に繋がると考え、留学先のボストンでは、老人ホームでボランティアをしました。働いたのはボストンの中心部にあるお金持ちの入居者の多い高級老人ホーム。
そこで出会う入居者はみんな、目の輝きを失っていました。生きる時間をただ殺しているだけの場所といった印象で、まるで高級な刑務所みたいと感じました。こんな場所は日本でも増やしたくないと強く感じました。
その後、フロリダにある難病の子供のためのアミューズメントパークのGive Kids The Worldでインターンをする機会を得ます。
こんな場所は日本でも増やしたくないと強く感じました。その後、フロリダにある難病の子供のためのアミューズメントパークのGive Kids The Worldでインターンをする機会を得ます。
Give Kids The Worldの園内
このアミューズメントパークは、世界中から難病の子供とその家族を旅費、滞在費等全て無料で1週間招待している施設で、常時200~300家族は滞在していました。
来年にはクリスマスパーティーを迎えられない子供もいるからと毎週クリスマスパーティーをしたり、両親は子供の看病で1日も休みがないからと、子供を1日預かって両親にデートする時間をプレゼントしたりと、本当に優しさの溢れた素敵な場所でした。
ディズニーワールドが近いこともあり、毎晩ミッキーやミニーが寝る前の子供達の各部屋を訪れてくれたりもしていました。
何よりも驚いたのは、そこで働く人の大半が70歳を超えた高齢者で、朝食堂に行くと200名以上の高齢者がごはんを食べに集まっています。まるで高齢者施設に来た感覚になるのですが、ただ、そこにいる人たちは、ボストンの老人ホームの高齢者とは全く異なり、皆が笑顔で活き活きとしていました。
あるおじいちゃんは、一見近寄りがたい気難しそうな顔をしていたのですが、子供たちを乗せた機関車を運転した後、ポケットに入れたチョコレートを子供達にそっと差し出したりし、子供達の笑顔を本当に嬉しそうな表情で見ていました。
また別のおじいちゃんは、奥様に先立たれているので今は独り身なのですが、「あのおばあちゃん可愛いだろ」と、恋していることを私に教えてくれたりもしました。
とにかく元気いっぱい、笑顔溢れ活き活きとしている高齢者がいっぱいいるGive Kids The Worldと、輝きを失った人で溢れたボストンの老人ホーム、この二つの違いを考えて気づいたことが、人が輝くためには『誰かの役に立っているという実感』と『人との繋がり』が重要ということでした。
日本では、地域や宗教的な繋がりも少ない中で、「会社」という存在は、生活の糧を得る手段としてだけではなく、人々の幸福度に大きく影響を与える役割も担っています。
このみんなが日常的に集まる「会社」という場を、『誰かの役に立っている実感』と『人との繋がり』を生み、『より人が輝く場所』に変えたい、そうすることで、もっと人が輝く社会に変わると考えるようになりました。
経営者を目指して三井物産へ
学生時代に日本の課題を色々と調べる中で、日本で自殺する人の理由の一番多くが、経済的な理由であることを知りました。
留学を通して、心の豊かさが重要と気づきはしたものの、お金がなければ多くの人が死を選ぶことも知りました。
自営業の父親を見て育ち将来は自分も起業したいと思っていたこともあり、日本の経済成長を牽引でき、且つ様々な業務を通して経営について学べる可能性のある三井物産に入社することにしました。
三井物産へ在籍した10年9か月の間は、税務→経理→人事→海外でのTVショッピング事業の立ち上げ(インド、インドネシア)→戦略企画→インドネシアでのIT関連企業を複数立ち上げと、全く異なる6つの業務を経験しました。
上司や先輩に声をかけられたりしながら、思いがけずの社内異動を繰り返し道が拓けてきたのですが、毎回素晴らしいメンバーに恵まれました。
理念浸透の重要性に気づいた人事での仕事
入社3年目には人事部へ異動し採用を担当しました。元々、人事部には組織のルールを植え付ける宗教の総本山のようなイメージがあったので、入社前には最も行きたくないと思っていた部署でした。
入社2年目の終わりに人事に来ないかと声をかけてもらった時に、当時の採用チームのリーダーが、「自分たちの仕事は応募者の中から上澄みをすくいとることではない。例えうちに来なかったとしても、その学生の未来につながる学びや気づきの機会を提供することが仕事だ」と言っていたことに、強く共感し、遣り甲斐や意義を感じられる仕事だと思いました。
また、起業経験のある友人に相談したら「経営の良し悪しは結局『人』に尽きる」と言っていたこともあり、将来経営者になる上でも重要な経験と考え、人事部で働いてみることにしました。
当時三井物産では、2002年に国後の不正入札事件、2004年にDPFのデータ捏造事件と不祥事が相次いだため、2004年に創業以来初めて経営理念(Mission、Vision、Values)が明文化され、人事部が中心となり全社へ理念浸透に取り組んでいるタイミングでもありました。
不祥事を生んだ原因の一つが、1990年代に導入した成果主義の影響で、社員の評価が短期的な目先の利益偏重となり、「儲かれば何をやってもよい」というような誤った文化を生んだことと言われておりました。
当時の三井物産では、定義した理念に合わせて社員の評価もそれまでの「定量100%」から「定量20%、定性80%」へと変更、事業に関しても儲かっていても社会的に価値を生まないと判断した事業は売却したりと、人と事業の両面の基準見直しにも取り組んでいました。
まさにそういった変革の真っ只中に、変革の起点となっていた人事に所属できたことは、その後の組織に向き合う仕事をする上でも大きな財産となりました。
また、その全社変革の活動を通して、それまでのギスギスした社内の雰囲気が、社員がより誇りややりがいを持ち、活き活きと働く前向きな雰囲気へと変化したのを肌で感じ、理念の定義や人事の仕事の重要性を感じました。
インドネシアでの新規事業立ち上げ、
そして戦略的思考の重要性に気づき外資コンサルBCGへ
その後、自ら主体的に組織創りに関わりたいと考え、海外でITやメディアの新規事業立ち上げやハンズオン型での経営支援に取り組む営業部へ異動しました。最初はインドやインドネシアでのTVショッピング事業の新規立ち上げを担当し、2013年からはインドネシアへ赴任しました。
インドネシアへ駐在した約3年の間には、現地店の立ち上げと、衛星放送事業、携帯通信事業、データセンター、Eコマースの4社の立ち上げに関わりました。衛星放送の事業会社においては、出向して経営企画部門をゼロから立ち上げ、経営支援にも取り組みました。
しかし、出向先の会社は赤字で、キャッシュが常に足りずに苦しい状況が続きました。
社員は500名近くいましたが、パートナー企業のオーナーの孫が、感覚に任せた独断経営をしており、どんどん経営状況は悪化していました。
広告にお金を大量投下し、目先の顧客は増えても、解約者が新規の顧客数以上に増え続ける日々。
多くキャッシュが減り続け、それでも正確な経営データが取れないこともあり、その経営の暴走を止められずにもどかしい日々を過ごしました。
出向先のインドネシア人の各メンバーとは、個人的に良好な関係を構築していましたが、相手にとってはいいやつでも、企業の変革に何も貢献できていない自分にもどかしさや、悔しさを感じる毎日。
その後、帰国が近づいたタイミングで、企業変革をやりきれる力を高めようとBCGへ転職することとしました。
インドネシアで新会社立ち上げに奔走していた時 (恩師Aliさんや仲間たち)
BCGでプロフェッショナルとして
価値を生み出す組織モデルを学ぶ
BCGでの日々は非常に刺激的でした。
フォトリーディングが出来て400文字くらいの文章であれば2~3秒で理解できる人や、プログラミングがめちゃできる元医者や元官僚など、出会ったことのない天才たちがいました。天才の性格は悪いものと勝手に思い込んでいましたが、出会う人は皆、自分の仕事が忙しくても喜んで周りをサポートする嫌味のない、働いていて本当に気持ちの良い素晴らしい人達でした。
転職して最初は全く価値を出せずに周りに助けられてばかりだったので、凄くプレッシャーを感じる毎日で、毎日睡眠時間2~3時間でただただ必死のパッチで働きました。
BCGに転職して驚いたのは、自分が商社時代に最も時間を使ってた「リサーチ」と「資料作成」業務は社内の別チームへアウトソースして、頭を使うことに時間を使い、皆が最もインパクトの出る方法で効率的に働いていることでした。
BCGではそれぞれのポジションで求められる役割や必要なスキルが明確に定義されており、アップオアアウトの厳しい環境の中で、何となく出世するということはあり得ず、上にはいるべき人がいるという納得感がありました。
毎回新たなプロジェクトにアサインされると、私自身の成長の観点とプロジェクトニーズの両面からそのプロジェクトのリーダーと話し合い、役割に合意してプロジェクトが始まります。
上下ではなく、お互いをプロフェッショナルとして尊重するこの働き方は素晴らしいと感じました。
人の成長には、OJT(現場経験)が7割、フィードバックが2割、研修が1割の影響を与えると言われたりしますが、BCGでは頻繁に自身のパフォーマンスのフィードバックを受ける機会があり、その的確なフィードバックが成長を加速させてくれました。
本では読んだことがあったものの、それが何かは理解できていなかった「仮説思考」、「ロジカルシンキング」などの頭の使い方を、徹底的にたたき込まれました。
三井物産時代にインドネシアの出向先で、正確なデータがないから分析できず方針を示しきれないと思っていたのが、実は足りていなかったのは、「仮設を立てて考えるという思考法」と、「データのとり方含めた、仮説検証のアプローチの理解」だったということにBCGへ入社して気づきました。
その後入社して2年目になると、成果報酬型の病院の経営改善プロジェクトにアサインされるようになり、コンサルタントとしての価値の出し方がようやく身についたことと、商社時代に磨いた組織や人の動かし方が上手くはまったこと等もあり、2年目の終わりには年間MVPに選んでいただけました。
年間MVP受賞時
スタートアップにて
今までとは全く異なる働き方を学ぶ
その後、社員数100名弱のTABI LABOというミレニアル世代向けのメディアと広告事業に取り組むスタートアップへ転職しました。
日本の企業変革には、クリエイティブが重要な役割を担うと考え、社会人になってからデザイン学校へ通っていたこともあり、クリエイティブの強い同社に入社し、経営の立場から組織創りに取り組むことにしました。
スタートアップの現場では、「PDCAを回して改善しながら正解に近づける」というよりも、「まずクイックに数多くやってみて、生き残ったものを正解にする」といった今までとは全く異なるスピード感や思考法、アプローチが求められました。
ロジカルに情報を整理してそれを経営会議に持ち込んでも、こちらで考えたフレームでは誰も発言してくれない等の失敗経験も通して、「自由な発言でアイデアを拡散させるフェーズ」と、「広がった議論の論点を整理するフェーズ」とで関わりを変える必要があることにも気づかされました。
経営で大事なのは戦略1割、実行9割と言われたりもしますが、まさに実行することの重要性を感じながら働く日々でした。
TABI LABOでの経験を通して、クリエイティブの持つ力、スタートアップで価値を出すために必要なマインドセットなど、才能溢れる仲間たちから多くのことを学ばせていただきました。
「未来の憧れとなる人と組織を生み出す」
ことを目的に起業
その後、改めて個人のパーパスや人生のビジョンを考える中で、”人の持つ可能性を爆発させ、未来の憧れとなる人や組織を増やす”ことをライフワークとして生きることを決意し、2019年9月にAxia Strategic Partners株式会社を設立しました。
現在は、「コーチング」と「コンサルティング」を組み合わせた独自の変革メソッドを通して、「理念策定」~「戦略策定」~「組織づくり」まで、個人、及び法人の一気通貫での変革支援に取り組んでおります。
今後も未来の子供たちが、活き活きと輝いて、心豊かに、充実した人生を生きられるためにも、子供たちの憧れとなるような人や組織を生み出すことに全力で取り組んで行こうと思います。
Axia Strategic Partners株式会社代表取締役
岸 昌史